書評 『クオ・ワディス』
2025年06月07日
『クオ・ワディス』
著者 ヘンリク・シェンキェヴィチ
訳者: 木村 彰一
岩波書店
著者が表現しようとした核心は、「滅びゆく肉体的な強権(ローマ帝国)」と「勃興する精神的な勝利(キリスト教)」の対比、そして**「愛による魂の救済」**という普遍的なテーマに集約されます。
著者が描こうとした主要な意図を以下の3点に整理します。
1. 二つの世界の衝突と交代
シェンキェヴィチは、退廃を極めたネロ皇帝時代のローマ帝国と、迫害の中で静かに広まる初期キリスト教という、対極にある二つの原理を提示しました。
・ローマの原理: 武力、富、享楽、そして自己中心的な「力」の支配。
・キリスト教の原理: 謙遜、純潔、自己犠牲、そして隣人への「愛」。
著者は、物質的に圧倒的な力を持ちながらも精神的に空虚なローマが、目に見える武器を持たない信仰の力によって内部から変容し、敗北していく歴史的転換点を鮮明に描き出そうとしました。
2. 人間性の変容と真の自由
主人公ウィニキウスの変容を通じて、著者は**「情欲(エロス)」から「献身的な愛(アガペー)」への昇華**を表現しています。
当初、リギアを所有物としてのみ見ていた軍人ウィニキウスが、信仰と愛に触れることで他者のために自分を捨てることを学ぶ過程は、著者が考える「人間の魂が到達しうる至高の境地」を示しています。
3. 苦難における希望の勝利と「クオ・ワディス」
タイトルである「クオ・ワディス(主よ、いずこへ行きたもう)」という言葉に象徴されるように、ペテロの葛藤と殉教の物語は、著者の強いメッセージを内包しています。
布教と苦悩: 迫害下のローマで、ペテロは信徒たちを励まし、福音を広めていきます。しかし、信徒の身を案じる周囲の説得を受け、一度はローマからの脱出を決意します。
アッピア街道の奇跡: 街を逃れようと街道をゆくペテロの前に、まばゆい光とともに主キリストが現れます。ペテロが「クオ・ワディス」と問うと、主は「汝がわが民を見捨てるなら、私はもう一度十字架にかかるためにローマへ行く」と告げます。
逆さ十字架の殉教: 己の使命を悟ったペテロは即座にローマへ引き返し、捕らえられます。彼は主と同じ形での死は畏れ多いとして、自ら望んで「逆さ十字架」にかけられ、その生涯を閉じます。
・殉教の意味: 暴力による死は肉体の終わりを意味するが、信仰における精神の勝利は永遠であること。
4. 継承される精神と現代への繋がり
著者はペテロの死を単なる悲劇ではなく、永遠に続く教会の礎として描きました。
初代ローマ教皇: ペテロは後に「初代ローマ教皇」として崇敬され、その精神は2000年にわたり歴代の教皇へと受け継がれていくことになります。
第267代教皇の選出: この精神的な系譜は現代へと続いています。2025年4月にフランシスコ教皇が逝去された後、5月に開催されたコンクラーベ(教皇選挙)において、第267代ローマ教皇としてレオ14世が選出されました。
シェンキェヴィチは、暴君ネロの過酷な弾圧下にあっても、「真理と愛に基づく精神」は決して滅ぼすことができないという、人類に対する希望と信頼を表現しました。
筆者:請川隆一
